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渡霧吐夢世界

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薄暗く不透明な世に一条の光を求める一こま

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  「闘う力」~再発がんに克つ
                                            なかにし礼    2016年2月24日刊

 作詞家、小説家、タレント等々で有名な、かの、なかにし礼氏の実体験を語った、「闘病日記」とも言うべき一作。氏にとって最新の書き下ろし作品ということになる。
 本書を一読してまず感じたのは筆者の類まれな「精神力」である。氏のこれまでのマスコミへのアッピールや各種の報道に見られる主張などから、かなり自己主張の強い人物であろうことは想像していたが、これだけ冷静に自分を取り巻く状況を分析し尚且つ、自分の主体性や価値観をしっかり保持できる人間は世間にそう多くはいないのではないかと思われる。それは「物書き」としての本能なのかも知れないが、自分自身も含めて実にクールな物の判断ができる、強い個性の持ち主であることは誰しも本書の内容を知れば疑うことはないであろう。
 作者が本書で綴った内容は2度の癌との闘いの記録であり、本人だけに書ける実にリアリテイに溢れた表現の連続である。最初に食道癌との闘いが始まった時、筆者は多くの患者が経験するような、外科的手術による選択肢を避け続けた。そして「切開手術」によらない方法を模索する中で、「陽子線療法」という治療法にたどり着いいた。この治療法は最先端の治療方法でまだ全国で実施できる病院は限られているが、外科的手術で摘出することなく癌を「消す」ことができるということで、条件が合えば願ってもない治療方法になり得るのだ。実際なかにし氏も初回の癌治療でこの方法で治療を受け「大成功」をした。(ように見受けられた。)余りに経過が良かったので、その後なかにし氏自身が「陽子線治療」の広報員として各所で講演活動を行った。しかし、運悪く癌は「完治」ではなかった。約3年近くが経過しようとしていたころの、定期健診で再度癌が発症していることが確認され2回目の闘病生活が始まった。しかし、2回目は初回とは違って、極めて重篤な病状だった。発症状況が危険な場所にあり医師の診断によると極めて危険性の高い状態にあった。残念なことに1回目の執刀医から直々に「今度は陽子線は使えません」と即断されてしまった。医師団の様々な忠告や意見を得て、筆者は結果的に手術及び抗がん剤療法の道を選択した。しかし、運悪く緊急手術の甲斐もなく、癌そのものを取り除くことはできなかった。ろっ骨を切断した手術のあとは猛烈な痛みに襲われ、やむなく強烈な痛み止め(麻薬)を使わざるを得なかった。しかし、痛みを抑えるのと引き換えに、恐ろしい幻覚と格闘させられることになる。
ようやく痛みが去り体力が戻る頃、抗がん剤療法が始まるのだが、これが又副作用がいろいろあって、苦しい体験ではあったが、何となかにし氏はこの苦しさを、本業の「物書き」として執筆にうちこむことで克服していったのである。まことに「真似のできない」精神力持ち主だ。そのほか闘病中に起きた様々な症状に対しても実に冷静沈着に対応し、なんと「もしもの時」に備えて「戒名まで」用意していたのだ。まさに小説にでも出てきそうな話ではあるが、筆者の価値観、人生観が如実に表れていて、感慨深い。
 癌との闘いを綴る中で、創作者としての「なかにし礼」の人となりを十分感知できる作品にもなっている。70代も後半となり、決して若くはない年齢かもしれないが、これだけの精神力、情況分析力のある筆者の資質からすれば、まだまだ数多くの傑作を世に送り出すことが十二分に予測され、また期待することができる。筆者の健康が続き、自ら追い求めるような創作活動が続くことを心から念願したい。
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# by tomcorder | 2016-06-05 23:35 | 日記

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 『東京が壊滅した日』     広瀬 隆    2015.6.26

 一読して思った。「すごい本だ」。福島原発事故以前より原子力ムラに正面から挑戦し続けてきた筆者ならではの渾身の一策。世界の原子力マフィアの歴史を暴き、原子力の狂気と裏で世界を動かす闇の社会を赤裸々に描きだした究極の暴露書である。
冒頭で作者が引用しているように、ECRR(ヨーロッパ放射線リスク委員会)の予言によれば、事故を起こした福島第一原発から100km圏内では、確率的に50年間で19万1986人が癌を発症し、そのうち半数以上の10万3329人が今後10年間で癌を発症するという。
それより遠い、100~200km圏内では、50年間で22万4623人が癌発症し、そのうち半数以上の12万894人が10年間で癌を発病するという予測を発表している。
ECRRは原子力推進の立場にあるIAEAやICRPと違って、過去の実害(病気)のデータに基づいて放射能被害の予想を行う機関であり、医学的な姿勢を堅持する団体であり、より「科学的」な資料に基づいた研究、発表を続けてきた。チエルノブイリの時と比べても日本の方がずっと「人口密度」が高い。その点を考慮した上で、200km圏内で約40万人以上が癌になると予測しているのである。福島原発から300km圏内の人間の居住地(福島・宮城・山形・栃木・群馬・茨城・埼玉・千葉・東京・神奈川の全域、そして岩手・青森・秋田・静岡・山梨・長野・新潟の一部)で放射の影響が体内で徐々に進行している、と考えるのは決して無謀な推論でない。「目に見えて」変化がないということは「全く影響がない」ということではない。逆に「目に見えた」時は「既に遅い」と考えるべきではないか。現に、福島県内では18歳以下の甲状腺ガンの発生率がこれまでの「平常値」の70倍を超えている。スクリーニング効果のためだとか、チエルノブイリの時の資料との整合性の観点から「放射能の影響とは考えにくい」などと関連機関の幹部は発表しているが、単純に出てきたこの「異常な数」を根本から否定する有力な根拠はない。やはり「何らかの理由」で従来のデータより数段上の結果がでていることは紛れもない事実であり。「地域性による差がでている」と主張する学者もいるのだ。いずれにしても、5年を過ぎれば甲状腺癌発症率が「客観的に」多いか、多くないかが歴然としてくるだろう。5年目というのは今年であり、結果の分析が重要度を増し、注目されている。
広島・長崎の原爆の例から考えても、爆発時の外部被爆による被害だけが被害ではなかったことは歴然とした事実だ。アメリカは「内部被曝」による被曝被害を認めなかったが、直接「爆弾」の被害を受けなかった人々にも「放射線被害」が発症し、現在までその影響が続いていることは今や常識となった。福一起源の放射能は直接・間接を問わず今後、多数の国民の体内に進入して行くことは想像に難くない。そしてその影響の実態は容易に断定することはできない。しかし、放射線の人体への影響についての調査は米国でも秘密裏に、想像を絶するような方法で行われていた。俗に言う「プルトニウム人体実験」は現実に行われていたことが判明した。広島・長崎の犠牲者のみならず、世界中で幾多の住民が、おぞましい実験の犠牲になり原子力マフィアの生贄になってきたのだ。
原発についても似たようなことが言える。原子力発電を地球規模で広めたのは決して「平和利用のため」ではなかった。特権階級、特権グループの「金のため」が主なる動機だったのだ。原発0でも決して電力不足に陥らない日本の電力供給能力が証明された今でも、必死に再稼働に向かう、政権と電力会社の欲望の有様からも、その実態を推し量ることはできる。
 よく言われることだが、「核」と言えば原爆も原発も別ものではない。「核の平和利用」とは「爆弾の形にはしない」というだけの意味であり。原子力は基本的に「放射能」から切り離すことはできず、人類は核とは共存できな。本書では「核」をめぐって世界の国々が、どの様な「原子力争奪戦」を行ってきたか克明に描かれている。原子力を取りこもうと必死になっていたのは、決してアメリカだけではなかった。かくいう日本でさえその計画は存在した。ただ圧倒的物量、軍事力と人脈で米国がずば抜けていただけのことであった。戦後になって次々と核保有国が増えて行った。核は決して米国だけの占有兵器ではなくなり、世界中に恐怖が広がった。だが、そのハンドルを握っているのは、世界を席巻する「死の商人」たる特権階級だ。そんな1%以下のグループに地球の未来が左右されていいものだろうか。
 福島原発事故では広島原爆100発以上の放射能が排出された。これは、1950年代ネバダで行われた核実験の放射能の、6倍程度に相当するという。米国の核実験では、多数の人間が様々な放射能被害で死んでいった過去の事実がある。では福島原発事故の影響は今後どうなるのか?明るくない見通しを立てたとしてもそれを「非科学的」と切り捨てるのは現段階では無理がある。というよりか、過去の事例から判断すれば「何らかの影響」がいずれ続発するかもしれない、と考えるのがある意味妥当ではないか。
「備えあれば憂いなし。」とのことわざがあるが、こと放射能に関する限り、「憂いなし」とは考えにくい。ならば余計に、「備え、調べ、用心する」ことが必要ではないか。
 筆者が巻末で警告する通り、我が国は世界有数の火山国である。地震の数も圧倒的に多い。この国に原発を多数構えることはどういうことを意味するのか。多くの人間が危惧する通り、これは素人でも分かる単純な推論であり、極めて妥当な見識だ。未来は予測不能だが、過去から学べる範囲内でも、今後も3.11以上の未曽有な災害に襲われる可能性がないとは言えない。・・・・その時原発はどうなる?「脱原発」以上の「賢い判断」などあるだろうか?
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# by tomcorder | 2016-03-09 18:24 | 日記
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 『日本外交 現場からの証言』 
                       孫崎 享    2015年8月20日刊

 話題を蒔いたベストセラー「戦後史の正体」を著した筆者が描く現代日本外交の本質。20世紀を描いた1993年に発刊された『日本外交 現場からの証言』<第2回山本七平賞受賞>に21世紀の「政治・外交の今」が大幅加筆され再発行されたものである。
 著者孫崎享氏は旧満州生まれの元外交官、英国、ソ連、米国、イラク、カナダ駐在の後、ウズベキタン大使、駐イラン大使を歴任し、2009年まで防衛大学校教授を務めた。その後現在は東アジア共同体研究所所長の肩がきを有し、マスコミに多出し、新聞・テレビ・インターネット・書籍等々幅広く活動し、多忙な日々を送っている有名言論人である。彼のヒット作「戦後史の正体」は22万部を突破したという。
 本書は全体が2部分から構成されており、1部は前作発表後から現在(2015年8月時点)に至るまでの政治外交史を眺めての、特徴的な事件や観点をまとめたものであり、今回新たに加筆されたものである。そして第2部は前作「日本外交現場からの証言」そのものの再発行である。作者の言葉を借りれば、二十数年の歳月を経て、「過去の自分」と対話した結果が、「自分の主張はあの頃と少しも変わっていない」だった。つまり作者の外交に対する価値観は今もぶれておらず、「日本は自分で国益を判断し行動すべきだ。同盟とはお互いの国益が合致した時に発生するもので、互いの国益が変化すれば当然、同盟も変化する」との主張だ。皮肉なことに前作を発表した後、米国の「一国支配」が始まり、日本国内では「とにかく米国の言う通りにすればよいのだ」という空気が政・官・言論界を覆うようになったという。しかし、今世界は変わった。「米国に従っていればよい」「隷属していれば日本は得をする」という時代は過去のものになりつつある。つまり時代は20年を経過し著者が前作を発表した時の状況に戻ろうとしていると説く。だからこそPART2の内容そのものが、今この時点で役に立つ時代に入ったと語気を強めている。
 具体的に例を挙げてみよう。
 PART1を通して述べられていることは
・冷戦の終結が米国の戦略を変えた。
・米国の戦略、価値観に基づいて進められた日本社会の構造改革だった。
・米国隷従による日本の国益の損失。
・日本が米国に従属的だった歴史・米国が日本に隷属を求める分野。
・国際環境の変化による米国一極支配の崩壊。
・時代はぐるり一回りして元の位置に戻ろうとしている。
 等々である。
 他方、第1作目であるPART2で展開されている内容は、
・外交の第1歩は価値観の違いの認識。
・親善が外交の中心でよいか。
・情報収集、分析。
・新しい外交政策の模索。
・政策決定過程。
・外交交渉。
  等々である。
現在の安倍政権の振る舞い方は「孫崎的観点」から見ればどう映るであろうか?TPP問題、集団的自衛権容認、沖縄に過重負担を強いる在日米軍基地、等々どれをとっても米国隷従のスタンスは旧態依然としている、というより以前にもまして「盲目的」になっている。昨今話題をまいた「アジアインフラ銀行」に関連して言えば「英国の振る舞い」はかつてのような固定的なものでないことは象徴的だ。他の欧州の国々とて、個々の国益を反映した外交方針の選択をしている。しかし我が国はどうだろう。情勢判断を間違えたのではないか。もう「対米追従」だけでは日本の国益は達成できない。それどころか下手すると「米国と心中」あるいは「米国の肩代わり」をして「影武者」になってしまうかも知れない。「米国の仲間としてテロの対象国へ」と言った深刻な問題も現実になりつつある。
 外交の姿勢の間違いが不幸な歴史を作ったのは衆知の通りである。今また、「新たな間違い」を犯さぬよう、著者ならずとも今後の政治・外交の動向を厳しく監視する必要に迫られている。

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# by tomcorder | 2016-01-19 18:10 | 日記
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  『絶望という抵抗』  ~辺見庸、佐高信~
                                      2014,12,11

 本書は作家として活躍中の二人の論客、辺見庸と佐高信両氏の対談集である。冒頭、辺見は「今何が見えているのか」と題して、今の時期を戦間期(inter war)と位置付けている。まことにショッキングな言葉である。しかし、この言葉の持つ意味は冷静に思考すればけっして過激なものでなく、むしろそれに気づかない感性こそ、「惰眠」を貪っている現実だということに気が付いてくる。
 本編は全8章で構成されている。順を追って概略を辿ってみる。
 まず第1章「戦後民主主義の終焉、そして人間が侮辱される社会へ」から始まり、コンピュータ化が進む現代に対し、危機感を訴えている。資本の論理をひたすら突き進む安倍ファシズムの現実を憂い、ジャーナリズム全体の現況に対し二人揃って、警鐘をならしている。貧困ビジネスなる悲壮な実態が現実になりつつある現代、ジャーナリズムに「闘う気概」があるのか、疑わしいという。ジャーナリストが「銀行員化」しているという。竹中労の言葉を引用し、「人は弱いから群れるのではなく、群れるから弱いのだ」と力説している。二人とも「その業界」で生きていればの言葉とうけとる。米国のジャーナリズムにおけるチョムスキーの扱われ方にも興味深い点がある。「マルクスより魯迅を」と辺見は強調する。
 第2章「<心>を言いだす知識人とファシズムの到来」では、最近いわゆるリベラルを装う知識人の間では、「中庸な振る舞い」を売りにして大衆受けする傾向があるが、「心」を言いだすのはテレビ芸人の始まり、との手厳しい口調で、ジャーナリズムの軟弱化を批判している。両氏の説では「ジャーナリストはゆすり、たかり、強盗のたぐい」だそうだ。つまりお利口そうな顔をして、分かったような顔をするのは権力に組みこまれていることであり、何も闘っていないことだと言いたいのだろう。かつて毎日新聞の西山太吉氏を組織が守れなかったことを鋭く指摘している。露骨な発言を連発するNHK経営委員の在り様を見れば、権力に知性も理性もない。それに立ち向かうのに「心」を言ってはいけないというのだ。反知性には「心」では勝てないということらしい。
 第3章「根生いのファシストに個として闘えるか」と題して至近な例を上げ、問題点を鋭く追及している。まずやり玉に上がったのは、麻生氏と籾井氏だ。二人は生い立ちに於いて共通点があるという。そして「反知性」ともいうべき軽率さが表出しているが、彼らは恥じることなく居直り、「無知は力なり」とでも言っているようだと説く。正に「戦争は平和」ということらしい。「馬鹿になれ、物を考えるな」というのが彼らの「論法」だというのだ。「武藤発言」に代表されるように、確かに最近の自民党関係者の言動は「痴性」が大手を振って公道を歩いているように見える。だからこそ「対案を出せ」などと平気で言えるのだ。真に受けてはいけないのだ。同じ土俵に乗ったら、「ジャーナリズム」ではなくなるのだ。安倍と一緒に飯を食ってるマスコミの幹部にはその意識は伺われないことは確かなようだ。正に危機的状況は崖っぷちにきている。
 第4章「日本ロマン派の復活とファシズムの源流」と題し、文芸論的側面から現代を捉えようとしている。いくつかのフレーズを並べると、
「百田の涙は安っぽい」(宮崎駿も言っている)
「天皇制の後ろにはおふくろがついている」(羽仁五郎)
「秀才の言うことは常に正しいにちがいない。しかし正しいことが世の中を動かしたことはないのだ。」(竹中好)・・等々。
 第5章「ジャーナリズムと恥」では、
<三島由紀夫はかつてクーデターを起こそうとした。しかし安倍晋三のクーデターのほうがはるかに深刻だ。>と述べている。韓国船の事故で船長が逃げたことが問題になり追及された。ならば日本のかじ取りから逃げた安倍晋三がなぜ追及されない?とマスコミのふがいなさを嘆く。それどころか、本気で書く言論陣が日増しに行動の場を奪われているのだ。テレビでも新聞でも、真実を伝えようとしたジャーナリストが次々と職場を追われてきた。西山記者だけではない。森田実、植草一秀、山本太郎,古賀茂明、・・・・。「描き出す能力がジャーナリズムからなくなっている。手遅れだ。」(辺見庸)
第6章「とるに足らない者の反逆」
「とるに足らない者に還る」とは魯迅の視点であるという。魯迅は儒教で言う「親孝行」をひっくり返した。徹底的な「個」からの発想だ。「ホモサピエンス」とは(知恵の人)との原義だが、現実は「暴力にとらわれた生き物」であり、ずっと戦争し続けている。このまま行けば戦争が永続すると想定すべきなのだ。
夏目漱石は「菫程な 小さき人に 生まれたし」と詠んだ。
石橋湛山は「小日本主義」を唱え、「経済は哲学」とも言った。辺見自身は「知の最たるは戦争の可能性を嗅ぎつけること」と唱え、自ら「戦争は来るぞ、来るぞ」とオオカミ少年を地で行っているが、その彼をして「間違いなく戦争が近づいている」と警告する。また、古老のジャーナリスト「むのたけじ」は「日本人にないのは希望ではなく深く程よい絶望だ」とも言っている。
 第7章「歴史の転覆を前にして徹底的な抵抗ができるか」と題して現状での具体的方法論を論じている。現代は正に「狂っている方が正常な生体反応」を示しており、何が起きるかはわからないが「「何が起きないか」は分かる時代になっている。異常なまで感覚の麻痺は進み、イスラエルのネタニヤフなど、「ハマスを全員殺す」などと公言している。日本におけるヘイトスピーチの横行などもこの範疇であろうし、イスラエルへの安倍政権の接近もこれに近いものがあると述べている。
 百田直樹、藤原正彦等の著述が売れ、政権側の「タレント」となっている。これは首相官邸が「私娼」を抱えていることだとはなかなか手厳しい。日中戦争が自存自衛のためだとか、南京大虐殺、強制連行、従軍慰安婦はなかっただとか、歴史の塗り替えが意図的に行われようとしている。「テクノロジーは退行しないが、政治は十分退行しうる。世界は封建時代へ向かっている」とはヨーロッパの学者の言葉らしい。
つい最近安倍晋三は70年談話なるものを発表した。舌足らずで、やたら長い。その上主語が意識的に省かれ、読むに堪えない「悪文」になっている。「何のための談話なのか」到底理解できない内容だった。いや理解できない内容を「出すことのみ」が目的だったのかも知れない。「過去の談話の趣旨を継承し」といっていること自体、過去への冒涜とさえ受け取れる。こんなまやかしの文でも受け入れ、評価してしまうマスコミの現状があるとしたら、それは国民の国語力の低下を意味するものであり、ジャーナリズムの「魂」の劣化でもある。辺見に言わせれば「徹底的な抵抗の弾け方」を忘れたのである。こんな中でも2002年、2014年には、新宿や日比谷で日本政府への抗議の意を込めた「焼身自殺」が続いているのだ。マスコミは取り上げない。ISの悲惨さは伝えてもガザで2000人以上が虐殺され手足がバラバラになっている事実は伝えない。そこにマスコミのペテンがある。命の大切さを語る前に「命の大切にされなさ」を伝えよと両氏は力説する。今の国会を見るまでもなく「権力こそ非合法」と訴える。
第8章「絶望という抵抗」正にタイトルテーマだ。
「日常の時間そのものが盤石の正常さとともに実は狂気を秘めている」(辺見庸)彼は言う。今は体を担保した抵抗こそ必要だと。「戦争にも反対、テロにも反対」ガザに行って言ってみろと彼は言う。日本はイスラエルと協定を結び、武器供与をしようとしている。「戦後平和運動の破算」とは右翼の言葉ではない、と鋭く突く。
 アメリカ式の戦争が定常化し、無人機や他国兵士の代行が集団的自衛権の名目で行われようとしているが、安倍晋三のグループはイメージ力が乏しい。
「絶望という抵抗」魯迅の1952年の言葉にもあるという。
「絶望之為虚妄 正与希望相同!」
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# by tomcorder | 2015-08-28 12:34 | 日記
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「原発ゼロプログラム」 ~技術の現状と私たちの挑戦~
                     安斎育郎、舘野淳、竹濱朝美
                                  2013.3.11刊

本書刊行の日は今から1年半前の3月11日、何と「あの日」からちょうど丸2年後の日であった。その当時の社会状況を思い起こすと、原発事故の衝撃は大きく様々な情報が飛び交っていた。悲観的なものから楽観的なものまで、その幅は広く一般庶民は何を信用していいのか考えあぐんでいた、というのが大多数の実態ではなかったろうか。そんな中で2012年の12月16日に衆議院選挙があり各党は、トーンの差こそあれ、総じて「原発ゼロへの」方向性を掲げていた。そして投票の結果として、自公中心の現与党が数字の上では圧倒的多数の議席を獲得して、政権に復帰した。選挙の分析は他の場に譲るとして、果してこの選挙で、原発事故への国民の不安や思いは投影されたのであろうか。端的に言えば「原発は選挙の争点」になったのだろうか。甚だ疑わしく、日本の世論と政治との相関関係に不信感さえ持ちたくなるような結果であった。その後の自公の原発依存への後戻りの実態を見れば、「脱原発依存」という言葉の欺瞞性に憤りを感じる読者も多いことだろうと想像する。
 本書は福島事故がどのようにして起こり、何をもたらしたのかを概括し、被災地と日本社会が再生するためには何が必要で、脱原発にはどんな課題と展望があるのか明らかにしようとするものであり、編集の中心は、安斎育郎(放射線防護学)舘野淳(核燃料工学)竹濱朝美(環境社会学)の3名である。全編の構成は第一章「福島原発事故がもたらしたもの」、第二章「原発ゼロへの技術的アプローチ」、第三章「原発ゼロのための再生可能エネルギー普及策」、第四章「原発開発の歴史と原発ゼロ社会への展望」の4編構成になっている。
第一章では福島原発事故の現状(その時点で)をどう見るかについて客観的論考を進めている。客観事実から分かる冷静な分析を展開しているといえる。事故の現状、5重の安全装置の崩壊、核燃料サイクルの破綻、放射線被曝の可能性、等々不確定要素も含め、未曽有の事故の莫大な被害の実態とと今後の予想を概観している。極端な例かも知れないが、ECRRのクリス・バズビー氏の説によれば、「福島の事故起因で今後数十万人が死亡する」との予想が発表されている。
第2章では、原発ゼロを実現するためにはどんな技術的アプローチが必要か、について広範囲に項目を挙げ説明されている。その概要は①軽水炉からの離脱と原子炉の解体②福一事故の収束と炉心取り出し③使用済み核燃料と高レベル廃棄物の処分④六ヶ所再処理工場の問題点と今後⑤今後の原子力技術、である。
構造的欠陥のある軽水炉から離脱し、廃棄物、使用燃料の仮処分技術確立までは少なくても原発利用の停止が必要と筆者は説いている。後始末のできない原発は「トイレなきマンション」とは通説の通りである。付随して「もんじゅ」は現状では「お荷物」以上の何物でもなく、即刻廃炉に向かうべきである。プルトニウム抽出のための再処理は中止すべき(核兵器を作る目的がない限り)であるが、技術の将来性は否定しないというのが筆者のスタンス。産官学の癒着体制も解体すべきと主張している。
福島第一原発現場で今後も確実に続くことは、汚染水の処分と冷却・廃棄物の処分・燃料の取り出し・炉心取り出しと解体・等である。なお汚染水の総量はスリーマイル事故の10倍にもなっているという。炉心取り出しの例はスリーマイルの事故の例しかない。その時でも10年かかったそうであるが、福一についてはいまだその時期の予測すらたっていない。(東電発表は単なる希望にすぎない)また、使用済み燃料、廃棄物の処分についても我が国は確固たる見通しはたっていない。ガラス固体化の技術も外国頼みであり、自前の技術はまだ開発されていない。廃棄物の最終処分についても、以前は地層処理を行うことになっていたが、日本には適地がないとの専門家の説もあり、未だに候補地はあがっていない。
第三章では、再生エネルギーの今後について考察提案している。筆者のいう再生エネルギーの備えるべき条件として①原子力発電に代わりうる供給量②費用、コストがペイできるか③環境負荷に問題はないか④産業雇用の拡大を展開できるか・・・の4点を挙げている。
固定価格化買取り制度等の方法論が展開されているが、問題点もある。しかし、ドイツの等の先進例に学び、国家ぐるみの体制を持って臨めば、決して不可能とは思えない。ドイツでは送電経路に乗せる時、再生エネルギーの発電を優先させる義務がある。しかるに我が国は最近、太陽光発電に制限をかけるような動きさえある。この違いは何か。太陽光、風力、地熱、小水力、等々いずれをとっても我が国は恵まれた環境にあり、その意味では日本は「資源大国」なのだ。このような好条件にあるのに、再生エネルギーの普及が進まないととしたら、それは正に「政治の貧困」以外に理由はあり得ない
第四章では、原発開発の歴史と原発ゼロ社会の展望と名うって、原発の過去と未来を対比している。人災としてこれだけの被災者、避難者を出した原発は最早安全なシステムとは言えず、安全神話は完全に崩れ落ちた。今までの原発の歴史を概観すれば、①米国の人体実験的要素の強い、広島・長崎の被曝体験②戦後の米ソの核実験③原発の実用化と危険性④電力生産と原発⑤原子力ムラの形成・・・というような時期を経て歩んできた。筆者である安斎育郎氏は1972年の学術会議で原発の危険性を訴え、6つの点検基準を指摘した。すなわち、①自主的開発であること②経済性と安全性のどちらを優先するのか③自主的民主的な地域開発を行っているか④軍事用利用への歯止めはあるか⑤原発労働者と地域住民の安全は確保さているか⑥民主的行政が保障されているか・・・である。これらは今もその存在意義は失われていない。
 今後の原発ゼロをめぐる運動の要点として次のような観点を上げ、筆者は本書の締めくくりとしている。
①原発問題の深刻さを認識する
②計画的廃絶こそ必要との意識の共有
③主権者の主体的行動が不可欠だとの認識の共有
④原発ゼロの道を「立法化」する
⑤心情的訴えと科学的合理的な認識の結合をはかり原発ゼロへの「ロードマップ」を実践要求する
⑥被害者への支援と連帯
の6点である。いずれも欠くことのできない項目であり。運動が進められて行くどの時点においても忘れてはならない重要な理念と考えられる。
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# by tomcorder | 2015-08-24 15:31 | 日記