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渡霧吐夢世界

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薄暗く不透明な世に一条の光を求める一こま

読書日記2月17日(日)

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 「原発はやっぱり割りに合わない」  大島堅一著
                   2013年1月刊
 前著「原発の本当のコスト」に次ぐ第二弾。筆者は福島事故以前から、仮に事故が起こらなかったとしても、「原発は割りに合わない」電源だと考え,その研究成果を発表してきた。
 一口に「原発のコスト」といってもその背景は広範囲に亘る。電力会社を中心に、原発推進論者が上げる原発のメリットとして、「発電単価が安い」と言う説がよく語られる。しかし、氏の言う通り原発という発電方式は、単に「発電所で電気を発電している時だけの経費」だけでなく、それを支えるために、実に広大な範囲に亘って、様々な「経費」が掛かっているというのである。事故がおきなくてもである。具体的には、原発からでる核廃棄物や施設そのものの処理や廃棄に関わる費用すなわち「バックエンドコスト」や「社会的コスト」と言われる「研究・立地のための政策コスト」や事故対策コスト」などである。これらの社快的コストを加味すれば、事故が起きなくても決して原発が一番低コストとは言えない、というのが氏の持論である。確かに、燃料費のコストだけに着目すれば、あたかも原発がコストに優れているかの「錯覚」に陥るかも知れないが、少し考えれば、原発には「隠されたコスト」あるいは、「意識的に見えないようにしたコスト」がかかっていることはすぐ分かる。福島事故以前から、原発という発電システムはものすごい「えこひいき」で運営されていたのだ。開発費とか立地地域の補助金とか、極端に原発には有利な配慮がされていた。だから「安上がり」に見えたのである。あるいは「電力会社の立場」から見て「安上がり」だったのである。筆者の言うとおり、納税者たる「国民」の視線で比べてみれば、けっしてコストは安くなく、それどころか一度事故を巻き起こせば、想像を絶する過大な「コスト」が消費者一人ひとりにのしかかってくるのである。事故の収束、賠償がまだ到底解決できない現在、我々はいったいいくらの請求書を突きつけられるのか、推測すらできないでいる。東京電力という一民間企業がおこした事故に対し、結局は税金という国民負担で賄うというのであれば、市場経済の理念や、社会正義や公平な価値観という点からも多くの矛盾点が続出し、決して「うやむやな解決方法」で済まされるべきではない。あれだけの事故の責任、は一体誰が負うのか?まだぜんぜん出口が見つからない。まさか「誰も知らないうちに負担だけが残り、世代が変わって忘れ去られてしまう」なんてことは無いのだろうか。
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by tomcorder | 2013-02-17 15:41 | 日記