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渡霧吐夢世界

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薄暗く不透明な世に一条の光を求める一こま

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「米軍機墜落事故」     河口栄二      朝日新聞社     1981年9月30日刊

 本著は1981年秋に出版された。今から34年前、戦後36年経った時期である。およそ終戦と現在の中間に位置する時点と言える。従ってここに掲げられている資料は、戦後の日本の足跡の「前半」に起こった事実と言える。ではこの日本戦後史前半の時期に在日米軍の起こした事故はどれくらいあったのだろうか。本著P.51 ~P.57には、昭和24年~昭和52年における米軍機の事故が記載されている。一般的な日本人がこの事実を知った時いったいどんな感想を持つだろうか。作者が追った記録によれば、昭和20年から昭和52年9月までの米軍機による邦人犠牲者は64人に上るという。これだけ多数の犠牲者が続いていたことをどれだけの国民が認知していたであろうか。報道によって広く伝えられたような事故については記憶に残っているものも在るかもしれないが、時が経過する中で世間から次第に忘れ去られ、一人一人が「痛み」を感ずることに麻痺している状態になってはいないだろうか。
 本著では、主に神奈川県を中心におきた何件かの傷ましい米軍機墜落事故の一部始終を取り上げ、在日米軍が起こした事故の悲惨さと、被害者の実情とその後の経過を正確に伝えようとしている。正に「なんの罪もない人びと」が突然、惨事に巻き込まれ、想像を絶する苦しみと格闘し、不本意にも帰らぬ人となった例も少なくないのだ。仮に命は助かったとしても、その後幾多の足かせの中で生き続けることを余儀なくされた。またその家族や関係者も、全く予期せぬ運命を重く背負って生きてゆくことになった。すべては安保条約や日米地位協定に起因する事故であり、被害者の保護、賠償、生活支援に関しても、とても十分な手立てがなされたとは言えない状況が続いた。
 1964年4月5日、厚木基地周辺に位置する町田市原町2丁目商店街に米軍機が墜落し、死者4人、重軽傷者32人の惨事となった。さらにこの時事故に巻きこまれなかった、吉田肉店の主人の妹Tさんはその後、米兵の運転する車に撥ねられ、命を落とすことになった。「公務中」の判断を受け国が全面賠償を行うことになった。
 同じく1964年の9月8日、厚木基地近隣の大和市上草柳6丁目の「館野鉄工所」の付近に米軍機が墜落した。館野鉄工所の主人館野政盛氏の息子3人を含む死者5人、軽傷者4人の被害をもたらした。何とこの日は、厚木基地の軍用機が別の場所でも墜落し、乗務員が死亡していた。その後館野鉄工所は、国からの指示でその場から移転することを余儀なくされ、苦難の道を歩むことになった。順調に家業を発展させ将来を夢見ていた経営者が全く自分の責任とは無関係なことで、人生を狂わされ、悲運な運命をたどることになってしまった。
 1981年9月30日、横浜市緑区の住宅地に米軍フアントム機が墜落。幼児を含む死者、重軽傷者9人が被災した。フアントム機は下限高度より低い高度300m以下で飛んでいた。厚木基地から航空母艦ミッドウエイに帰還する途中であった。米全空母のうち、海外に基地を持つのは横須賀港を母港とするミッドウエイのみである。米軍機と我が国の民間機との飛行空域は想像を絶する過密な構図になっていて、今現在も常に事故の危険性が危ぶまれるほど複雑である。戦後70年も経つというのに未だに植民地並みの状況である。
 幾多の犠牲者を生み、今もなお我が国を縛っている、日米の軍事同盟の実態を変えてゆかない限り、今後も悲惨な事故が起こり得る。沖縄だけでなく、我が国が戦後払ってきた犠牲は多大なものがある。「日本の若者も血を流すことを覚悟しなければ対等な関係とは言えない」などと血生臭い発言をする閣僚が後を絶たない。これだけの日本人が戦後も「血を流し」「理不尽な犠牲を払ってきた」ことを国の指導者たちはどう自覚しているのだろうか。余りにも米国追従的な政治姿勢ではないか。
 きな臭い話題が登場するようになってきた、最近の政治状況だが、平和憲法下でも、こんなに不合理で暴力的な事件が多発し、我が国民の権利と安全はないがしろにされてきたのだ。いまさら「憲法を変える」などと言う前に、現に目の前にある不合理をなぜ正そうとしないのか。軍事力を増強したところで、庶民を米軍から守れなければなんの意味もないではないか。
 
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by tomcorder | 2015-02-08 18:12 | 日記