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渡霧吐夢世界

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薄暗く不透明な世に一条の光を求める一こま

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  『絶望という抵抗』  ~辺見庸、佐高信~
                                      2014,12,11

 本書は作家として活躍中の二人の論客、辺見庸と佐高信両氏の対談集である。冒頭、辺見は「今何が見えているのか」と題して、今の時期を戦間期(inter war)と位置付けている。まことにショッキングな言葉である。しかし、この言葉の持つ意味は冷静に思考すればけっして過激なものでなく、むしろそれに気づかない感性こそ、「惰眠」を貪っている現実だということに気が付いてくる。
 本編は全8章で構成されている。順を追って概略を辿ってみる。
 まず第1章「戦後民主主義の終焉、そして人間が侮辱される社会へ」から始まり、コンピュータ化が進む現代に対し、危機感を訴えている。資本の論理をひたすら突き進む安倍ファシズムの現実を憂い、ジャーナリズム全体の現況に対し二人揃って、警鐘をならしている。貧困ビジネスなる悲壮な実態が現実になりつつある現代、ジャーナリズムに「闘う気概」があるのか、疑わしいという。ジャーナリストが「銀行員化」しているという。竹中労の言葉を引用し、「人は弱いから群れるのではなく、群れるから弱いのだ」と力説している。二人とも「その業界」で生きていればの言葉とうけとる。米国のジャーナリズムにおけるチョムスキーの扱われ方にも興味深い点がある。「マルクスより魯迅を」と辺見は強調する。
 第2章「<心>を言いだす知識人とファシズムの到来」では、最近いわゆるリベラルを装う知識人の間では、「中庸な振る舞い」を売りにして大衆受けする傾向があるが、「心」を言いだすのはテレビ芸人の始まり、との手厳しい口調で、ジャーナリズムの軟弱化を批判している。両氏の説では「ジャーナリストはゆすり、たかり、強盗のたぐい」だそうだ。つまりお利口そうな顔をして、分かったような顔をするのは権力に組みこまれていることであり、何も闘っていないことだと言いたいのだろう。かつて毎日新聞の西山太吉氏を組織が守れなかったことを鋭く指摘している。露骨な発言を連発するNHK経営委員の在り様を見れば、権力に知性も理性もない。それに立ち向かうのに「心」を言ってはいけないというのだ。反知性には「心」では勝てないということらしい。
 第3章「根生いのファシストに個として闘えるか」と題して至近な例を上げ、問題点を鋭く追及している。まずやり玉に上がったのは、麻生氏と籾井氏だ。二人は生い立ちに於いて共通点があるという。そして「反知性」ともいうべき軽率さが表出しているが、彼らは恥じることなく居直り、「無知は力なり」とでも言っているようだと説く。正に「戦争は平和」ということらしい。「馬鹿になれ、物を考えるな」というのが彼らの「論法」だというのだ。「武藤発言」に代表されるように、確かに最近の自民党関係者の言動は「痴性」が大手を振って公道を歩いているように見える。だからこそ「対案を出せ」などと平気で言えるのだ。真に受けてはいけないのだ。同じ土俵に乗ったら、「ジャーナリズム」ではなくなるのだ。安倍と一緒に飯を食ってるマスコミの幹部にはその意識は伺われないことは確かなようだ。正に危機的状況は崖っぷちにきている。
 第4章「日本ロマン派の復活とファシズムの源流」と題し、文芸論的側面から現代を捉えようとしている。いくつかのフレーズを並べると、
「百田の涙は安っぽい」(宮崎駿も言っている)
「天皇制の後ろにはおふくろがついている」(羽仁五郎)
「秀才の言うことは常に正しいにちがいない。しかし正しいことが世の中を動かしたことはないのだ。」(竹中好)・・等々。
 第5章「ジャーナリズムと恥」では、
<三島由紀夫はかつてクーデターを起こそうとした。しかし安倍晋三のクーデターのほうがはるかに深刻だ。>と述べている。韓国船の事故で船長が逃げたことが問題になり追及された。ならば日本のかじ取りから逃げた安倍晋三がなぜ追及されない?とマスコミのふがいなさを嘆く。それどころか、本気で書く言論陣が日増しに行動の場を奪われているのだ。テレビでも新聞でも、真実を伝えようとしたジャーナリストが次々と職場を追われてきた。西山記者だけではない。森田実、植草一秀、山本太郎,古賀茂明、・・・・。「描き出す能力がジャーナリズムからなくなっている。手遅れだ。」(辺見庸)
第6章「とるに足らない者の反逆」
「とるに足らない者に還る」とは魯迅の視点であるという。魯迅は儒教で言う「親孝行」をひっくり返した。徹底的な「個」からの発想だ。「ホモサピエンス」とは(知恵の人)との原義だが、現実は「暴力にとらわれた生き物」であり、ずっと戦争し続けている。このまま行けば戦争が永続すると想定すべきなのだ。
夏目漱石は「菫程な 小さき人に 生まれたし」と詠んだ。
石橋湛山は「小日本主義」を唱え、「経済は哲学」とも言った。辺見自身は「知の最たるは戦争の可能性を嗅ぎつけること」と唱え、自ら「戦争は来るぞ、来るぞ」とオオカミ少年を地で行っているが、その彼をして「間違いなく戦争が近づいている」と警告する。また、古老のジャーナリスト「むのたけじ」は「日本人にないのは希望ではなく深く程よい絶望だ」とも言っている。
 第7章「歴史の転覆を前にして徹底的な抵抗ができるか」と題して現状での具体的方法論を論じている。現代は正に「狂っている方が正常な生体反応」を示しており、何が起きるかはわからないが「「何が起きないか」は分かる時代になっている。異常なまで感覚の麻痺は進み、イスラエルのネタニヤフなど、「ハマスを全員殺す」などと公言している。日本におけるヘイトスピーチの横行などもこの範疇であろうし、イスラエルへの安倍政権の接近もこれに近いものがあると述べている。
 百田直樹、藤原正彦等の著述が売れ、政権側の「タレント」となっている。これは首相官邸が「私娼」を抱えていることだとはなかなか手厳しい。日中戦争が自存自衛のためだとか、南京大虐殺、強制連行、従軍慰安婦はなかっただとか、歴史の塗り替えが意図的に行われようとしている。「テクノロジーは退行しないが、政治は十分退行しうる。世界は封建時代へ向かっている」とはヨーロッパの学者の言葉らしい。
つい最近安倍晋三は70年談話なるものを発表した。舌足らずで、やたら長い。その上主語が意識的に省かれ、読むに堪えない「悪文」になっている。「何のための談話なのか」到底理解できない内容だった。いや理解できない内容を「出すことのみ」が目的だったのかも知れない。「過去の談話の趣旨を継承し」といっていること自体、過去への冒涜とさえ受け取れる。こんなまやかしの文でも受け入れ、評価してしまうマスコミの現状があるとしたら、それは国民の国語力の低下を意味するものであり、ジャーナリズムの「魂」の劣化でもある。辺見に言わせれば「徹底的な抵抗の弾け方」を忘れたのである。こんな中でも2002年、2014年には、新宿や日比谷で日本政府への抗議の意を込めた「焼身自殺」が続いているのだ。マスコミは取り上げない。ISの悲惨さは伝えてもガザで2000人以上が虐殺され手足がバラバラになっている事実は伝えない。そこにマスコミのペテンがある。命の大切さを語る前に「命の大切にされなさ」を伝えよと両氏は力説する。今の国会を見るまでもなく「権力こそ非合法」と訴える。
第8章「絶望という抵抗」正にタイトルテーマだ。
「日常の時間そのものが盤石の正常さとともに実は狂気を秘めている」(辺見庸)彼は言う。今は体を担保した抵抗こそ必要だと。「戦争にも反対、テロにも反対」ガザに行って言ってみろと彼は言う。日本はイスラエルと協定を結び、武器供与をしようとしている。「戦後平和運動の破算」とは右翼の言葉ではない、と鋭く突く。
 アメリカ式の戦争が定常化し、無人機や他国兵士の代行が集団的自衛権の名目で行われようとしているが、安倍晋三のグループはイメージ力が乏しい。
「絶望という抵抗」魯迅の1952年の言葉にもあるという。
「絶望之為虚妄 正与希望相同!」
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by tomcorder | 2015-08-28 12:34 | 日記
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「原発ゼロプログラム」 ~技術の現状と私たちの挑戦~
                     安斎育郎、舘野淳、竹濱朝美
                                  2013.3.11刊

本書刊行の日は今から1年半前の3月11日、何と「あの日」からちょうど丸2年後の日であった。その当時の社会状況を思い起こすと、原発事故の衝撃は大きく様々な情報が飛び交っていた。悲観的なものから楽観的なものまで、その幅は広く一般庶民は何を信用していいのか考えあぐんでいた、というのが大多数の実態ではなかったろうか。そんな中で2012年の12月16日に衆議院選挙があり各党は、トーンの差こそあれ、総じて「原発ゼロへの」方向性を掲げていた。そして投票の結果として、自公中心の現与党が数字の上では圧倒的多数の議席を獲得して、政権に復帰した。選挙の分析は他の場に譲るとして、果してこの選挙で、原発事故への国民の不安や思いは投影されたのであろうか。端的に言えば「原発は選挙の争点」になったのだろうか。甚だ疑わしく、日本の世論と政治との相関関係に不信感さえ持ちたくなるような結果であった。その後の自公の原発依存への後戻りの実態を見れば、「脱原発依存」という言葉の欺瞞性に憤りを感じる読者も多いことだろうと想像する。
 本書は福島事故がどのようにして起こり、何をもたらしたのかを概括し、被災地と日本社会が再生するためには何が必要で、脱原発にはどんな課題と展望があるのか明らかにしようとするものであり、編集の中心は、安斎育郎(放射線防護学)舘野淳(核燃料工学)竹濱朝美(環境社会学)の3名である。全編の構成は第一章「福島原発事故がもたらしたもの」、第二章「原発ゼロへの技術的アプローチ」、第三章「原発ゼロのための再生可能エネルギー普及策」、第四章「原発開発の歴史と原発ゼロ社会への展望」の4編構成になっている。
第一章では福島原発事故の現状(その時点で)をどう見るかについて客観的論考を進めている。客観事実から分かる冷静な分析を展開しているといえる。事故の現状、5重の安全装置の崩壊、核燃料サイクルの破綻、放射線被曝の可能性、等々不確定要素も含め、未曽有の事故の莫大な被害の実態とと今後の予想を概観している。極端な例かも知れないが、ECRRのクリス・バズビー氏の説によれば、「福島の事故起因で今後数十万人が死亡する」との予想が発表されている。
第2章では、原発ゼロを実現するためにはどんな技術的アプローチが必要か、について広範囲に項目を挙げ説明されている。その概要は①軽水炉からの離脱と原子炉の解体②福一事故の収束と炉心取り出し③使用済み核燃料と高レベル廃棄物の処分④六ヶ所再処理工場の問題点と今後⑤今後の原子力技術、である。
構造的欠陥のある軽水炉から離脱し、廃棄物、使用燃料の仮処分技術確立までは少なくても原発利用の停止が必要と筆者は説いている。後始末のできない原発は「トイレなきマンション」とは通説の通りである。付随して「もんじゅ」は現状では「お荷物」以上の何物でもなく、即刻廃炉に向かうべきである。プルトニウム抽出のための再処理は中止すべき(核兵器を作る目的がない限り)であるが、技術の将来性は否定しないというのが筆者のスタンス。産官学の癒着体制も解体すべきと主張している。
福島第一原発現場で今後も確実に続くことは、汚染水の処分と冷却・廃棄物の処分・燃料の取り出し・炉心取り出しと解体・等である。なお汚染水の総量はスリーマイル事故の10倍にもなっているという。炉心取り出しの例はスリーマイルの事故の例しかない。その時でも10年かかったそうであるが、福一についてはいまだその時期の予測すらたっていない。(東電発表は単なる希望にすぎない)また、使用済み燃料、廃棄物の処分についても我が国は確固たる見通しはたっていない。ガラス固体化の技術も外国頼みであり、自前の技術はまだ開発されていない。廃棄物の最終処分についても、以前は地層処理を行うことになっていたが、日本には適地がないとの専門家の説もあり、未だに候補地はあがっていない。
第三章では、再生エネルギーの今後について考察提案している。筆者のいう再生エネルギーの備えるべき条件として①原子力発電に代わりうる供給量②費用、コストがペイできるか③環境負荷に問題はないか④産業雇用の拡大を展開できるか・・・の4点を挙げている。
固定価格化買取り制度等の方法論が展開されているが、問題点もある。しかし、ドイツの等の先進例に学び、国家ぐるみの体制を持って臨めば、決して不可能とは思えない。ドイツでは送電経路に乗せる時、再生エネルギーの発電を優先させる義務がある。しかるに我が国は最近、太陽光発電に制限をかけるような動きさえある。この違いは何か。太陽光、風力、地熱、小水力、等々いずれをとっても我が国は恵まれた環境にあり、その意味では日本は「資源大国」なのだ。このような好条件にあるのに、再生エネルギーの普及が進まないととしたら、それは正に「政治の貧困」以外に理由はあり得ない
第四章では、原発開発の歴史と原発ゼロ社会の展望と名うって、原発の過去と未来を対比している。人災としてこれだけの被災者、避難者を出した原発は最早安全なシステムとは言えず、安全神話は完全に崩れ落ちた。今までの原発の歴史を概観すれば、①米国の人体実験的要素の強い、広島・長崎の被曝体験②戦後の米ソの核実験③原発の実用化と危険性④電力生産と原発⑤原子力ムラの形成・・・というような時期を経て歩んできた。筆者である安斎育郎氏は1972年の学術会議で原発の危険性を訴え、6つの点検基準を指摘した。すなわち、①自主的開発であること②経済性と安全性のどちらを優先するのか③自主的民主的な地域開発を行っているか④軍事用利用への歯止めはあるか⑤原発労働者と地域住民の安全は確保さているか⑥民主的行政が保障されているか・・・である。これらは今もその存在意義は失われていない。
 今後の原発ゼロをめぐる運動の要点として次のような観点を上げ、筆者は本書の締めくくりとしている。
①原発問題の深刻さを認識する
②計画的廃絶こそ必要との意識の共有
③主権者の主体的行動が不可欠だとの認識の共有
④原発ゼロの道を「立法化」する
⑤心情的訴えと科学的合理的な認識の結合をはかり原発ゼロへの「ロードマップ」を実践要求する
⑥被害者への支援と連帯
の6点である。いずれも欠くことのできない項目であり。運動が進められて行くどの時点においても忘れてはならない重要な理念と考えられる。
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by tomcorder | 2015-08-24 15:31 | 日記
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  「70年談話に物申す」

 70年談話の一節にどうしても見逃せない部分がある。「・・・関わりのない、私たちの子や孫・・・謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」響きのよいフレーズかも知れないが、騙されてはいけない。「言葉の一人歩き」だ。「自分の立ち位置」が少しも示されてはいない。自分を語らず「願望」で支持を得ようなどとは虫もいいのにもほどがある。「戦争を知らない世代」が、大半を占める時代になった。自分もその一員であり。「過去の戦争は自分の責任ではない」と思った時代もあった。しかし「歴史」とはそういうものではなく、好のむと好まざるとを問わず、存在自体が政治的で、生まれた時から「何か」を背負って育ってきたのだ。個人の意思とは別のもろもろの「遺産」の中で生きてきた。その中には当然「負の遺産」もある。「被害者サイドの歴史」がある限り、「加害者サイドの歴史」がある。それを、「もう70年が経過したのだから忘れることにする」というのは、果たしてどちらのサイドの人間が言うべきセリフなのだろう。誰にとっても「忘れたい」のは共通の願望だ。しかし、「共通の願望だから支持される」というのは違うだろう。「願望」が満たされるためには「両サイドの願望」が共有される時限に到達する必要がある。70年経ってもまだ道半ばと言わざるを得ない。その道を一歩でも縮めるために、政権担当者が存在するのではないか。自分の責務をはぐらかしておいて、願望だけを強調し、支持を手繰り寄せようなどという魂胆は、正に「成りすまし行為」に他ならない。将来世代に「荷を背負わせたくない」なら、まず自分のなすべき課題を語るべきだ。世間では荷を軽くするどころか、一層重い荷を背負わせ続けて居るのが安倍政権だという論調がもっぱらではないか。確かに、歴史認識だけでなく、若い世代が将来の生活設計を見通す時、多分野にわたって、「途方もない重荷」を背負わせているのが、現政権の実像ではないか。
「輝かしい未来」などとは簡単委に言えない時代になってきた。その認識が今の政権担当者にはどれほどあるだろうか。派遣法を始め多くの法案が、将来世代の荷を軽くする方向で進められているとは、到底思えない。
時間が経つにつれ、腹立たしさが増してくる70年談話の内容ではなかったろうか。
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by tomcorder | 2015-08-16 12:25 | 日記
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  「オスプレイとは何か40問40答」       松竹伸幸
                                 2012.9.20
オスプレイ=危険の代名詞。というイメージが大きいが、実際どれくらいの事故歴があるのだろうか。まず、<試作段階>では、
1992.7月  着陸直前出火、ポトマック川墜落。合計7名死亡し、1年間の飛行停止。
1994年   量産が認められ、運用評価をしながら調達中に
2000.4月  兵員輸送訓練時、急降下墜落。19名全員死亡
2000.12月  夜間飛行中墜落、4名全員死亡すべてのオスプレイの飛行停止措置。
2002年5月 停止措置解除
2005年   本格的調達開始 
2010.4月  アフガニスタン着陸中横転4名死亡
2012.4月  海兵隊モロッコで訓練中2名死亡
*米政府は最終2例をパイロットの人為ミスとして、機体に問題はないと7の見解を示している。*
 オスプレイとは簡単に言えば従来のヘリコプターの持つ機能に、滑空機能等の通常飛行機の機能を兼ね備えた軍用機である。ヘリコプターのように垂直離着陸が出来、「飛行機モード」になれば一般の飛行機のような高速で長距離の飛行が可能になる。つまり両方のいいとこどりで、軍用機として長らく米軍が待ち望んでいた機種である。紛争地で実践的に使える機種として期待が大きかった。しかし長所ばかりではなく、短所もある。オスプレーにはヘリコプターには供えられている「ローテーション機能」がないのだ。従っていったんエンジンが停止した場合、即墜落ということになり、極めて危険性が高いといえる。
このオスプレーには、主に海兵隊で使うMV-22と空軍で使うCV-22の2タイプがあり。後者は特殊作戦要因の輸送が任務である。
「オスプレイは危険だ」との声がよく聞かれるが、それに対し、米軍関係者や日本政府は「通常のヘリより10万飛行時間当たりの事故率は低い。」と主張し、オスプレイの安全性を強調している。しかし、この数字をよく見ると、前に示した死亡事故例のいくつかが含まれていなかったことが分かった。又重大な事故である「クラスA」の事故だけでなく、「クラスB」の事故で比較すれば、9機種平均2.07に対しオスプレー2.85となっており、「クラスC」に至っては平均4.85に対しオスプレー10.46になっている。つまり2倍以上もの結果がでているのだ。いくら「クラスC」と言っても、これが沖縄などの基地周辺の密集地で起きれば、「大惨事」になる危険性は十分あるのだ。
現在沖縄だけでなく日本各地の米軍および自衛隊基地にオスプレイの配置が拡張されようとしている。米軍の「低空飛行訓練ルート」は日本全土にわたって多数のパターンが設定されており、厚木の航空母艦や岩国から飛行訓練をおこなっている。反対の声が聞こえてはいるが、一たび事故が起こったとしても、日本の法律で裁判することさえできないのだ。「日米地位協定」が存在する限り、屈辱的な状況が続いており、「訓練空域については協定を結ぶことになっている」と地位協定にあるにも関わらず、日本政府は「軍隊の通常の活動に属すると思われる行動につきましては駐留を認められる結果として当然認められるものべきもの」と容認の立場をとっている。なんという「従属体質」なのか。また「実弾を伴わなければ日本の空のどこで訓練をしてもよく、陸地についてもオスプレイ程度の装備の変更は拒否できない」との見解を保持している。これが日本政府の基本姿勢なのだ。
 米軍の低空飛行訓練はドイツにおいても行われている。しかし、いくつかの制限事項が決められており、必ずドイツ国防大臣の了解を得た上で実行することになっている。ところが日本は全く違っていてアメリカに従順で、「いつどこでもやっていい」という状態がまかり通っている。アメリカ国内であれば環境アセスメントの実施があり住民の意見が反映されるのに、日本に対しては何も行われず、すべてのルートが夜昼構わず利用されている。
アメリカの軍事方針に異議を唱えることは、けっして特別なことではなく、いくつかの国が表明してきた。それによってアメリカとの関係が悪化してたとの例は聞いたことがなく、
アメリカとの違いを表明しても引き続き親密な外交関係を保っている国も複数存在する。それに反してわが日本は、世界の中でただ一国、アメリカの戦争に一度も異を唱えたことのない稀有な国だ。
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by tomcorder | 2015-08-02 16:01 | 日記
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 「沈みゆく大国アメリカ」       堤未果  2014.11.19
            ~政府は必ず嘘をつく~

筆者堤未果は東京生まれのジャーナリスト。2008年「ルポ貧困大国アメリカ」で日本エッセイストクラブ受賞、2011年「政府は必ず嘘をつく」早稲田大学理事長賞を受賞。
 「日本の国民皆保険制度を守ってくれ」これは筆者の父親が最後に残した、愛する娘への「遺言」だった。
 ~ 鳴り物入りで始まった医療保険制度改革「オバマケア」は、恐るべき悲劇をアメリカ社会にもたらした。「癌治療薬は自己負担、安楽死薬なら保険適用」「高齢者は高額手術より痛み止めでOK」「一粒10万円の薬」「自殺率一位は医師」「手厚く治療すると罰金、やらずに死ねば遺族から訴訟」これらはフイクションではない。すべて、超大国で進行中の現実なのだ。石油、農業、食、教育、金融の領域を蝕んできた「1%の超・富裕層」たちによる国家解体ゲーム。その最終章は人類の生存と幸福に直結する「医療」の分野だった。~<本書巻頭辞>より
新自由主義の「先進国」アメリカでは弱肉強食の世相が社会を飲み込み、1%の超富裕層が国家の富を独占する状況が続き、年収8万ドル(800万円)の家庭でも、いったん重病や重度の傷害を負った場合、相当高価な保険に加入していない限り、「生活の質」が一変し、場合によっては「自己破産」に追い込まれる。医療費の高いアメリカでは、リハビリに月900ドル(9万円)などと言う例も決して珍しくはない。最底辺の低所得者層はメディケイドの制度で救済されるが、ごく普通の所得の家庭でも、医療費がかさみ、加入している保険が不十分な内容のものであると、十分な治療が受けられなかったり、経済的に破産してしまったりするのだ。「自由の国」アメリカの皮肉な裏側であり、正に「破産し没落する自由」が選べるのだ。これは笑い事ではない。これに似た言動を元閣僚経験者の某経済学者(?)が発していたのを確かに覚えている。許せない発言だ。
日本も決して「他国の話」と呑気なことを言ってられる状況ではない。話題の「TPP交渉」の成り行きいかんでは我が国も米国のような状況が、いや最悪の場合それ以上の悲劇的な状況が生まれる可能性があるのだ。米国に於いては医療や保険は福利厚生というより、「商品」なのだ。人の命が「商品化」されて扱われる。「国民皆保険制度」がいったん崩れれば、こういう社会が現実にやってくるのだ。
オバマ大統領が、力を入れている「皆保険制度」は日本人から見れば「歓迎すべきもの」として映ったかもしれない。しかし、その内容は細部が分かってくると、日本の皆保険制度とは似ても似つかぬものであり、「オバマケア」の保険に加入した場合、人によっては従来の民間保険の数倍懸け金を負担しなければならず、なんのための制度改革なのかという不満の声が高まっているという。
皆保険制度の導入で、経営が苦しくなる企業もあって、一説によると全米企業の半数が「罰金」を払っても企業保険を廃止しているという。そのため、フルタイムからパートタイムへと雇用形態が変容し450万人が雇用保険を失っているという。企業の論理で行けば、1人のフルタイムを減らせば2人のパートタイムが雇えるという計算らしい。ある予測では2016年までに3000万人が無保険になる見通しだという。
この結果労組の組織率が年々減少し、現在13%まで低下してしまったという。日本も決して他人ごとではない。
「中流階級はより大きな安全を手にいれるだろう」とオバマは言った。しかし20年間の増税は500億ドルとの見通しで、治療費はじめ保険料や薬価に上乗せされる。
「旨み」を味わうのは保険会社と製薬会社だけで、その他は負担増を強いられる。どうにも患者は楽をできそうにない。2重3重に苦しみを与えられ、大資本家のみが「勝ち組」となる。この構造どこかの国に似てないか。
医師もまた保険制度のしわ寄せを受けている。かつて高額所得者の代名詞だった医者という職業も、変容を迫られ、訴訟世界というアメリカの個別事情も手伝って、医師の貧困化が進んでいるという。「外科医なのにワーキングプア」という信じられないような現実も表れているという。
保険会社や製薬会社を中核とする「医療産業複合体」はすさまじい勢いで社会を飲み込み、正に「笑いの止まらぬ快進撃」を続けている。そして次のターゲットは紛れもなく「日本」だという。TPPなどでアメリカ型の医療システムが導入され、極度の規制緩和が進むと、日本はアメリカ企業にとってきらきら輝く美味しい市場になる。大型医療法人が肥大化し、病院や介護施設を傘下に置くようになる。つまり医療や介護が文字通り「商品」となり「成長産業」として脚光を浴びるようになる。「命」を金で扱うようになるのだから、究極の命の売買の場として、戦争も視野に入ってくる。正にアメリカの再現そのものだ。
日本の生命保険市場は世界2位の広さを誇っているという。今後規制緩和を進めると、国民負担を6割まで高める時代が来るという。年金さえも株で運用している日本に、大資本は次の「マネーゲーム」をしかけようと狙いを定めている。
「憲法9条と国民皆保険」この二つは日本が絶対に手放してはならない生命線だ。と作者は訴える。全くの正論と考える。戦後日本が世界に誇れる「日本ブランド」これは日本人としてのプライドのかかった、最重要案件なのだ。軽々しく「健保解釈を変える」などと言いだす政権の源には日本の伝統・文化を愛する心情が十分あるとは到底思えない。アメリカを見習って、アメリカの蒔いた餌にすぐ飛びつく悪食な番犬には断じてなってはいけない。

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by tomcorder | 2015-08-02 15:56 | 日記