『絶望という抵抗』 ~辺見庸、佐高信~
2014,12,11
本書は作家として活躍中の二人の論客、辺見庸と佐高信両氏の対談集である。冒頭、辺見は「今何が見えているのか」と題して、今の時期を戦間期(inter war)と位置付けている。まことにショッキングな言葉である。しかし、この言葉の持つ意味は冷静に思考すればけっして過激なものでなく、むしろそれに気づかない感性こそ、「惰眠」を貪っている現実だということに気が付いてくる。
本編は全8章で構成されている。順を追って概略を辿ってみる。
まず第1章「戦後民主主義の終焉、そして人間が侮辱される社会へ」から始まり、コンピュータ化が進む現代に対し、危機感を訴えている。資本の論理をひたすら突き進む安倍ファシズムの現実を憂い、ジャーナリズム全体の現況に対し二人揃って、警鐘をならしている。貧困ビジネスなる悲壮な実態が現実になりつつある現代、ジャーナリズムに「闘う気概」があるのか、疑わしいという。ジャーナリストが「銀行員化」しているという。竹中労の言葉を引用し、「人は弱いから群れるのではなく、群れるから弱いのだ」と力説している。二人とも「その業界」で生きていればの言葉とうけとる。米国のジャーナリズムにおけるチョムスキーの扱われ方にも興味深い点がある。「マルクスより魯迅を」と辺見は強調する。
第2章「<心>を言いだす知識人とファシズムの到来」では、最近いわゆるリベラルを装う知識人の間では、「中庸な振る舞い」を売りにして大衆受けする傾向があるが、「心」を言いだすのはテレビ芸人の始まり、との手厳しい口調で、ジャーナリズムの軟弱化を批判している。両氏の説では「ジャーナリストはゆすり、たかり、強盗のたぐい」だそうだ。つまりお利口そうな顔をして、分かったような顔をするのは権力に組みこまれていることであり、何も闘っていないことだと言いたいのだろう。かつて毎日新聞の西山太吉氏を組織が守れなかったことを鋭く指摘している。露骨な発言を連発するNHK経営委員の在り様を見れば、権力に知性も理性もない。それに立ち向かうのに「心」を言ってはいけないというのだ。反知性には「心」では勝てないということらしい。
第3章「根生いのファシストに個として闘えるか」と題して至近な例を上げ、問題点を鋭く追及している。まずやり玉に上がったのは、麻生氏と籾井氏だ。二人は生い立ちに於いて共通点があるという。そして「反知性」ともいうべき軽率さが表出しているが、彼らは恥じることなく居直り、「無知は力なり」とでも言っているようだと説く。正に「戦争は平和」ということらしい。「馬鹿になれ、物を考えるな」というのが彼らの「論法」だというのだ。「武藤発言」に代表されるように、確かに最近の自民党関係者の言動は「痴性」が大手を振って公道を歩いているように見える。だからこそ「対案を出せ」などと平気で言えるのだ。真に受けてはいけないのだ。同じ土俵に乗ったら、「ジャーナリズム」ではなくなるのだ。安倍と一緒に飯を食ってるマスコミの幹部にはその意識は伺われないことは確かなようだ。正に危機的状況は崖っぷちにきている。
第4章「日本ロマン派の復活とファシズムの源流」と題し、文芸論的側面から現代を捉えようとしている。いくつかのフレーズを並べると、
「百田の涙は安っぽい」(宮崎駿も言っている)
「天皇制の後ろにはおふくろがついている」(羽仁五郎)
「秀才の言うことは常に正しいにちがいない。しかし正しいことが世の中を動かしたことはないのだ。」(竹中好)・・等々。
第5章「ジャーナリズムと恥」では、
<三島由紀夫はかつてクーデターを起こそうとした。しかし安倍晋三のクーデターのほうがはるかに深刻だ。>と述べている。韓国船の事故で船長が逃げたことが問題になり追及された。ならば日本のかじ取りから逃げた安倍晋三がなぜ追及されない?とマスコミのふがいなさを嘆く。それどころか、本気で書く言論陣が日増しに行動の場を奪われているのだ。テレビでも新聞でも、真実を伝えようとしたジャーナリストが次々と職場を追われてきた。西山記者だけではない。森田実、植草一秀、山本太郎,古賀茂明、・・・・。「描き出す能力がジャーナリズムからなくなっている。手遅れだ。」(辺見庸)
第6章「とるに足らない者の反逆」
「とるに足らない者に還る」とは魯迅の視点であるという。魯迅は儒教で言う「親孝行」をひっくり返した。徹底的な「個」からの発想だ。「ホモサピエンス」とは(知恵の人)との原義だが、現実は「暴力にとらわれた生き物」であり、ずっと戦争し続けている。このまま行けば戦争が永続すると想定すべきなのだ。
夏目漱石は「菫程な 小さき人に 生まれたし」と詠んだ。
石橋湛山は「小日本主義」を唱え、「経済は哲学」とも言った。辺見自身は「知の最たるは戦争の可能性を嗅ぎつけること」と唱え、自ら「戦争は来るぞ、来るぞ」とオオカミ少年を地で行っているが、その彼をして「間違いなく戦争が近づいている」と警告する。また、古老のジャーナリスト「むのたけじ」は「日本人にないのは希望ではなく深く程よい絶望だ」とも言っている。
第7章「歴史の転覆を前にして徹底的な抵抗ができるか」と題して現状での具体的方法論を論じている。現代は正に「狂っている方が正常な生体反応」を示しており、何が起きるかはわからないが「「何が起きないか」は分かる時代になっている。異常なまで感覚の麻痺は進み、イスラエルのネタニヤフなど、「ハマスを全員殺す」などと公言している。日本におけるヘイトスピーチの横行などもこの範疇であろうし、イスラエルへの安倍政権の接近もこれに近いものがあると述べている。
百田直樹、藤原正彦等の著述が売れ、政権側の「タレント」となっている。これは首相官邸が「私娼」を抱えていることだとはなかなか手厳しい。日中戦争が自存自衛のためだとか、南京大虐殺、強制連行、従軍慰安婦はなかっただとか、歴史の塗り替えが意図的に行われようとしている。「テクノロジーは退行しないが、政治は十分退行しうる。世界は封建時代へ向かっている」とはヨーロッパの学者の言葉らしい。
つい最近安倍晋三は70年談話なるものを発表した。舌足らずで、やたら長い。その上主語が意識的に省かれ、読むに堪えない「悪文」になっている。「何のための談話なのか」到底理解できない内容だった。いや理解できない内容を「出すことのみ」が目的だったのかも知れない。「過去の談話の趣旨を継承し」といっていること自体、過去への冒涜とさえ受け取れる。こんなまやかしの文でも受け入れ、評価してしまうマスコミの現状があるとしたら、それは国民の国語力の低下を意味するものであり、ジャーナリズムの「魂」の劣化でもある。辺見に言わせれば「徹底的な抵抗の弾け方」を忘れたのである。こんな中でも2002年、2014年には、新宿や日比谷で日本政府への抗議の意を込めた「焼身自殺」が続いているのだ。マスコミは取り上げない。ISの悲惨さは伝えてもガザで2000人以上が虐殺され手足がバラバラになっている事実は伝えない。そこにマスコミのペテンがある。命の大切さを語る前に「命の大切にされなさ」を伝えよと両氏は力説する。今の国会を見るまでもなく「権力こそ非合法」と訴える。
第8章「絶望という抵抗」正にタイトルテーマだ。
「日常の時間そのものが盤石の正常さとともに実は狂気を秘めている」(辺見庸)彼は言う。今は体を担保した抵抗こそ必要だと。「戦争にも反対、テロにも反対」ガザに行って言ってみろと彼は言う。日本はイスラエルと協定を結び、武器供与をしようとしている。「戦後平和運動の破算」とは右翼の言葉ではない、と鋭く突く。
アメリカ式の戦争が定常化し、無人機や他国兵士の代行が集団的自衛権の名目で行われようとしているが、安倍晋三のグループはイメージ力が乏しい。
「絶望という抵抗」魯迅の1952年の言葉にもあるという。
「絶望之為虚妄 正与希望相同!」